★あらすじ
古代から現代まで世界哲学史を一望に収める八巻シリーズの第二巻。
一巻目の紹介は下記の通りです。
一巻目では“古代文明”の誕生とともに生まれてきた哲学の興りを概観してきたが、二巻目では各文明から生まれてきた思想や宗教を見ていく。
哲学は合理性という観点から「宗教」と対比される。だが、神や超越的なものを論じない訳ではない。新たな教えを導入した人を中心に、宗教結社のように共同生活を送ることも多かったのだ。ローマ時代に始まるキリスト教神学はギリシア哲学を展開して総合的な知となり、イスラーム哲学も「クルーアン」に則った哲学であるし、インドの諸哲学は世界観・人生観を宿す宗教でもあった。中国の儒教や道教は宗教儀礼を伴っていた。
宗教と哲学の関係を問い直すことも世界哲学の課題の一つである。
また、これまで弁論術と言うと、詭弁を弄するだけ哲学ではない、との評価を受けてきた。そしてプラトン以来、西洋哲学から排除されてきた。だが、弁論術をいかに再評価するかも現代の世界哲学の課題の一つだ。それは、これまでの西洋哲学以外を排除してきた傾向を脱し、広く哲学の領域を捉えようとするためだ。
宗教が一つの民族や地域を越えて広まった時、「世界宗教」と呼ばれる。哲学でも同様に考えた場合、そこには共通して「翻訳」という観点が存在する。翻訳は「受容(レセプション)」という創造的な営みであり、より多くの翻訳・受容を経た哲学が「世界哲学」としての性格を帯びると考えられる。
ギリシア哲学はローマ時代に入り、ラテン語で語られるようになる。インドで生まれた仏教は、大乗仏教の出現によって思想としての深化を遂げ、アジア全体へと伝播していく。中でも中国において中国語で語られるようになり、朱子学の誕生にも影響を与えた。
マニ教・ゾロアスター教は誕生の地において中世イラン語で語られていたが、言語自体の衰退もあってやがて廃れ、忘れ去られてしまった。だが、翻訳・受容を通して本来の姿からは変容して行ってしまったが、ニーチェによって語られたように、その残滓は世界各地に残っている。
★基本データ&目次
作者 | 伊藤邦武, 山内志朗, 中島隆博, 納富信留 |
発行元 | 筑摩書房(ちくま新書) |
発行年 | 2020 |
副題 | 古代Ⅱ 世界哲学の成立と展開 |
ISBN | 9784480072924 |
- はじめに
- 第1章 哲学の世界化と制度・伝統
- 第2章 ローマに入った哲学
- 第3章 キリスト教の成立
- 第4章 大乗仏教の成立
- コラム1 アレクサンドリア文献学
- 第5章 古典中国の成立
- 第6章 仏教と儒教の論争
- 第7章 ゾロアスター教とマニ教
- 第8章 プラトン主義の伝統
- コラム2 ユリアヌスの「生きられた哲学」
- 第9章 東方教父の伝統
- 第10章 ラテン教父とアウグスティヌス
- コラム3 ジョゼフ・ニーダムの見いだしたこと
- あとがき
- 人名索引
- 年表
★ 感想
宗教と哲学って“別物”であって、宗教になっちゃったら思考停止、それ以上のものはない、という、漠然としたイメージというか、線引きをしていた。神様を引っ張り出したら“何でもあり”になっちゃうから。
でも、それは現代の今だからこその見方。宗教が広まり、体系化していくまさにその時代にあっては、両者に大きな違いはなかったのだろう。本書でも語られているように、ギリシア哲学もアカデメイアなどの宗教性を帯びた場・集団によって語られていた訳で、我々が変に決めつけるのはやめ、まずは広い心で持って臨まねばならないと理解した。
人はいかに生きるべきかを論じるのは哲学だ。仏教では輪廻転生、因果応報をベースにした思想で、“次の世でより良い人生を送るため”に今を生きるという考え。前世の行いによって今の富貴・卑賤が決まっているということ。
それに対して儒教では死後の世界を信じていない。人間、死ねば終わり。儒者の范縝(はんしん)は、「なぜ、富貴・卑賤の差があるのか?」の問いに、「それは偶然だ」と答えたという。
神や仏を信じる・信じないは別にして、今の自分の状況・立場・生まれなどをどのように受け入れ、生きていけば良いのかを考える時、「頑張れば次のチャンス(天国なのか、来世なのか)がある」と思うのか、「現状を受け入れるしかないから、今、頑張らねば」なのか、実践的な問題でもある。そう考えると、確かに宗教と哲学とは別物と言う訳ではないと納得。
そんな議論が、宗教の伝播と共に世界各地で語られていたことがこの一冊を通しで概観できた感じだ。一巻目では個々の地域の哲学史を語っているだけの気がして、まだ“世界哲学”という感じが掴めなかった。でも、二巻目にして世界中で似たような議論が為されていたんだという雰囲気が分かってきたので、なるほどこれは“世界哲学”を考えているんだなと言う方向性が見えてきた。
コメント