現代語訳吾妻鏡 9 執権政治

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★あらすじ

承久四年 (貞応元年)1222年
2/6 犬追物が行われ、三寅(後の頼経)が楽しんだ。(犬追物の話は初出)
5/4 地震があった。
5/24 天地災変の御祭が行われる。
7/23 大地震が起きた。(その後も、年末まで地震が頻発する。)
8/2 彗星が戌の方角に現れる。
10/26 藤原公経の昇進に関して、北条政子から朝廷へ内々に取り次いだ。
12/12 北条義時の室 伊賀市が男子を出産する。(のちの時尚か?)

貞応二年 1223年
1/20 三寅(後の頼経)の邸宅が狭いので拡張しようとなったが、陰陽師たちに占わせたところ、結果が一致しなかった。
1/25 北条義時が再度、陰陽師たちに占いをさせたが、やはり結果はバラバラだった。翌日、京都の陰陽寮長官に伺いを立てるため、義時が使いを京都へ向かわせた。
4/11 三寅(後の頼経)の御衣を鼠が食い破る。卜筮したところ、病気の恐れありとのことだった。
4/16 鼠の一件で泰山府君祭が執り行われる。
4/28 千鞠の会が催されたが、三寅(後の頼経)に鳥が糞を落とした。占いによるとこれも病気の恐れありとのことだった。
4/30 鳥の糞の一件で百怪御祭御座が行われた。
5/14 北条義時が御物忌の作法を定める
9/10 天変が続いたため、各種祈祷が行われる(僧侶による護摩行や、陰陽師による祭祀)。
10/13 三寅(後の頼経)の近習番が選出される。北条重時が十八名がその役に

貞応三年 (元仁元年) 1224年
1/1 北条義時が垸飯を献上する
1/2 垸飯。三浦義村が御剣を献上する
1/4 垸飯。結城朝光が御剣を献上する
2/29 昨年冬、高麗人の舟が越後国寺泊浦(現在の新潟県長岡市辺り)に漂着した。彼らが持っていた弓や刀などが鎌倉に届き、三寅(後の頼経)に献上され、北条義時らも集まって見学した。武器類は日本のそれらに似ていたが、銀の札に記された銘は誰も解読できなかった(現在では、金国の通行手形だと推定されている)。
6/13 北条義時が亡くなる。脚気と霍乱(暑気あたり)によるとされた。
6/26 北条泰時が京都から鎌倉に戻る。
6/28 北条泰時が北条政子や大江広元らと協議をする。政子は武家の取りまとめ(執権の任?)を泰時がとれと指示し、大江広元は騒ぎになる前に早くそれを宣言した方が良いと進言する。一方で、伊賀一族に謀反の動きがあると聞かされた泰時は「それは事実ではない」として取り合わなかった。
6/29 北条時盛、時氏が京都に向かう。義時の死によって朝廷側が騒ぎ出すのを抑えるためだ。
7/5 伊賀光宗兄弟が三浦義村の元を頻繁に訪れているとの噂が立つ。
7/17 北条政子が三浦義村の元を訪ね、伊賀一族に加担することをやめるよう説得する。義村もこれに応え、北条泰時を推すこととなる。
閏7/3 北条政子が北条時房、そして病床にあった大江広元も呼び出して審議をし、伊賀氏(北条義時の後室)らの処分を決定する。伊賀氏と伊賀光宗は流罪。その他のものは罪科に問わない、となった。
閏7/29 時政、義時の代にはなかったが北条家に家令が設けられる。
8/8 北条義時の墳墓堂(新法華堂)の供養が行われる。墳墓堂は頼朝の法華堂の東に建てられた。
8/29 在京の伊賀朝行、光重(光宗の弟たち)が鎮西に配流となる。
9/5 故北条義時の遺産(荘園)の、子どもたちへの杯分を泰時が行う。北条政子から「泰時の取り分が少ないが良いのか?」と問われるも、泰時は「自分は執権を引き継いだ。荘園は他の兄弟姉妹が相続すれば良い」と言ったという。政子は感涙した。
10/29 一条実雅が越前国に配流となる。

元仁二年 (嘉禄元年) 1225年
1/1 北条時房により垸飯が献上される。御剣は三浦義村。
5/22 北条政子の発願により、疫病・干ばつを鎮めるための供養が行われる。鶴岡八幡宮に僧侶千二百人を集め、経文転読や写経が行われた。翌日の夜、雨が降ったという。
5/29 北条政子が病気になる。
6/10 大江広元が亡くなる。享年七十八歳。
7/11 北条政子が亡くなる。享年六十九歳。前漢の呂后、神功皇后と同様に天下の政務を執った。
8/27 北条政子の死に伴う恩赦によって伊賀朝行、光重が配所から帰参する。
10/28 御所新設に伴い、三寅(後の頼経)が伊賀朝行の館に移る。
12/29 三寅(後の頼経)が元服する。

嘉禄二年 1226年
1/1 北条泰時により垸飯が献上される。
1/2 北条朝時により垸飯が献上される。
1/3 三浦義村により垸飯が献上される。
2/13 佐佐木信綱が今日から帰参し、1/27に頼経が征夷大将軍宣下があり、右近衛少将に任ぜられ、正五位下に叙せられたとの報告があった。

嘉禄三年 (安貞元年)1227年
5/14 高麗からの書状が太宰府経由で鎌倉に届く。海賊行為が横行していることに対する苦情であった。
6/18 北条泰時の次男 時実が家人の高橋次郎によって殺害される事件が起きる。高橋はほかにも側にいた数人を殺害していて、生け捕られた後、斬首された。
11/18 頼経が病気となる。後に赤斑の腫れ物が出てくる。(流行病で、京都でも後堀河天皇はじめ多くの人が罹患する。死者も多数出た)
11/29 権侍医の良基の医術によって頼経の病気が回復に向かう。(それまで、多くの加持祈祷が行われたが、その効果があったとは書かれていない)

安貞二年 1228年
10/18 箱根権現で火災があり、社殿が焼失する。創建以来五百年以上に渡って、火災に遭うことがなかったので、北条泰時は大いに嘆いた。

安貞三年 (寛喜元年) 1229年

寛喜二年 1230年
閏1/26 朝廷から「滝口に詰める武士がいないので派遣せよ」との院宣が下った。御家人の中から子息を派遣することとなった。(朝廷警護も鎌倉に頼らねば人がいない状況を表しているか)
6/5 小御所の屋根に白鷺が集まる。
6/9 御所に落雷があり、下部(身分の低い従者)が一人、死亡する。
6/14 鷺や落雷の件で、頼経が御所を離れるべきか否かを陰陽師らが議論する。醍醐天皇の時代の話を引き合いに出して凶事と言うものもあれば、東国では逆に吉事だというものもあり、紛糾する。結果、落雷の件ではまとまりがなかったものの、鷺の件で「御所を離れるべき」となった。
6/18 北条時氏が亡くなる。
6/19 北条時氏の死去により、頼経が御所から離れる件は取りやめとなった。
12/9 頼経の結婚に関して密議が行われ、竹御所(源実朝息女)が相手と決めらる。即日、御所に入られ、これが結婚の儀となった。密議のため、表立った儀式はなかった。 

★基本データ&目次

編者五味文彦, 本郷和人
発行元吉川弘文館
発行年2010
副題執権政治 貞応元年(1222年)~寛喜二年(1230年)
ISBN9784642027168
  • 本巻の政治情勢
  • 吾妻鏡 第二十六 承久四年 (貞応元年)1222年
  • 吾妻鏡 第二十六 貞応二年1223年
  • 吾妻鏡 第二十六 貞応三年 (元仁元年) 1224年
  • 吾妻鏡 脱漏 元仁二年 (嘉禄元年) 1225年
  • 吾妻鏡 脱漏 嘉禄二年 1226年
  • 吾妻鏡 脱漏 嘉禄三年 (安貞元年)1227年
  • 吾妻鏡 第二十七 安貞二年 1228年
  • 吾妻鏡 第二十七 安貞三年 (寛喜元年) 1229年
  • 吾妻鏡 第二十七 寛喜二年 1230年

★ 感想

承久の乱の後、三寅(のちの藤原頼経)を次期将軍として鎌倉に向かい入れ、源氏将軍後の時代の形を作り始めた。だが、鎌倉幕府を形作ってきた北条義時が亡くなる。京都にいた北条泰時が呼び戻され、北条政子から「次の執権」になるよう指示を受ける。この時とばかりに伊賀氏が謀反を企てるが、北条政子らの素早い動きによって封じ込まれた。
だが翌年、その北条政子、そして大江広元も相次いでこの世を去ってしまった。鎌倉幕府の舵取りを北条泰時が一身に背負うこととなったのだ。

というのがこの巻の前半の流れ。どうなることかと思われたが、泰時はうまく御家人たちをまとめ上げ、頼経を将軍に据え、幕府の形を再構成したのだ。
うまくやっていた証拠と言えるだろうが、本書後半ではそれほど大きな事件もなく、淡々と日常の出来事が記述されているだけに見える。逆に天変地異や自然災害、そしてそれによる飢饉などの記事が目立った。

飢饉に関連して、かの有名な(?)徳政令が何度か出されている。現代人の感覚では、借金をしていたものは救われても、貸し付けていた方が大損害を出して“倒産”してしまうんじゃないかと心配になってしまう法律だ。
この頃は荘園制が中心となって税の徴収をしていたのだろうけど、幕府が送り込んだ地頭との間でゴチャゴチャしているから、徳政と言ってもちゃんと実行されたのだろうか。そこまで細かいことは吾妻鏡に書かれていないので何とも言えない。
そう言えば、荘園領主と地頭との間で訴訟沙汰になることも多かったようで、吾妻鏡でもしばしば話題に上っている。有名な「御成敗式目」は次の巻になるが、この巻の時代でもちょこちょことルールが明文化されていったようだ。執権政治体制が徐々に確立する過程で“法整備”も進んで行ったのがわかる。

「鎌倉殿の13人」では毎回、誰かが粛正されていくが、北条泰時の時代になるとやっと落ち着いてきたと言うことかな。ちょっと心落ち着かせて読み進めることができた。逆に、メモするポイントが段々減ってきてしまって困ったけど。

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