★あらすじ
映画「ザ・コーブ」は、日本のイルカ漁を批判・非難する内容で、アカデミー賞まで受賞した作品だ。それ以前にも、「動物の権利」の主張の下、日本食の活け造りなども批判されている。これらは単に、異文化間での認識の違いというだけでは理解できない、より深い背景があると感じ、研究を進めた。
その中で、日本ではお馴染みの「シートン動物記」が欧米では忘れられた作品であり、シートン自身も非科学的という批判を受けていたという事実を知る。その背景には歴史的・文化的背景があると感じた。
そんな違和感は、動物写真家・星野道夫に対する評価に関しても感じられた。アラスカの自然を被写体にした星野だが、本人は「自然保護とか、動物愛護という言葉には何も惹かれなかった」と語っている。これはどういう意味なのだろうか。そこには、「自然保護」という言葉には欧米のある特定の時代の政治的・イデオロギー的背景の下に形成された「思想」があり、非欧米的自然観を生きる人びとを排除・抑圧するように作用している現実があったからだ。
そのような事を見てきたあとで改めて「ザ・コーブ」をみると、その内容の真偽や過剰な演出よりも、そもそもこの作品が誰のために、そして何の目的で作られたのかに興味が出てきた。製作者はなぜここまで「必死」になってこの作品を作ったのか。膨大な労力と資金を費やしてまでこの映画を作ったその理由は、動物保護という欧米初の活動の背景に、ある種の切実さ、衝動があると感じられた。
そこには、近代動物保護思想が内包する進歩主義的世界観や、その背後にある西洋的な人種階層のイデオロギーが見えてきたのだ。
★基本データ&目次
作者 | 信岡朝子 |
発行元 | 講談社(講談社選書メチエ) |
発行年 | 2020 |
副題 | 『シートン動物記』から『ザ・コーヴ』へ |
ISBN | 9784065212592 |
- はじめに
- 序論 東西に原論を越えて
- 第1章 忘れられた作家シートン
- 第Ⅱ章 ある写真家の死 ― 写真家・星野道夫の軌跡
- 第Ⅲ章 快楽としての動物保護 ― イルカをめぐる現代的神話
- おわりに
- 注
- 文献一覧
- 初出一覧
★ 感想
私自身、「動物の権利」や「動物保護」に対しては強い違和感を感じていた。保護したり、守る対象の“選び方”が恣意的、さらには感情的なものに過ぎないと思えるからだ。イルカや犬、猫は守るのに、牛や鶏は殺して食べるし、害虫と呼ばれる虫たちに対しては大虐殺を日常的に行っている。人の役に立つとか、可愛いという理由で選んでいるとしか思えない。それこそ「神の行為」であり、不遜であろう、と。
だが、本書を読んでさらに根深い問題・背景がありそうだと言うことを知って、なるほどと思うことが何度も。もちろん、著者の主張が全て正しいとは限らないけど、それでも新たな観点を知ることができ、この問題にさらに興味が湧いてきた。
生物の進化を「進歩」と勘違いして、人間がその進歩の頂点の存在・完成形だと思っちゃっている人は多そう。そこに人種差別的な考え方も合わされば、「頂点にいる存在だからこそ、『下の存在』に手を差し伸べる」的な発想となるのだろう。
ルーズベルトが「力強さを失わないために、ハンティングは有益だ」とした考え方のベースに、「白人男性がヒエラルキーの頂点」であり続けたいという欲望の表れだという分析は分かり易い。そして、そこから“上から目線”の動物保護へと繋がっていくという流れは納得がいく。
あと、“イルカ伝説”がいかに創り上げられていったかの流れも興味深いものだった。「脳みその大きさが人間と同じくらいで、コミュミケーションもしている動物だから、イルカは人間に近い存在だ。」から始まり、その後はいわゆる“スピリチャル”な領域に入っていき、人間の理想像としてイルカを祀り上げるプロセスはまさに新興宗教と同じだ、といった旨の著者の主張もなるほどと思わせてくれた。
そもそも、人間に“近い”存在を祀り上げるならば類人猿が最も相応しいはずだが、猿は「進化の序列」で人間よりも下等だとしちゃったから、今さら使えないとなった、という分析も頷ける。イルカ漁をバッシングするならば、先に「猿回し」劇団を取り上げる方が良さそうなものだ。脳の大きさだけなら、アフリカ象は人間の三倍はあるようだし、遺伝子数で言えばタコは人間の1.5倍だ。
自分が一番上になるヒエラルキーを作りたい、それを“スタンダード”にしてしまいたい、ということが現在の「動物保護」のベースにあるのだということに尽きるだろう。
自分の想いが強すぎて、本書のレビューになっていない文章になってしまった。でも、これは読むべき一冊だと言うことは確か。強くお薦めする。
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