★あらすじ
建久元年 1190年
2/4 十月に頼朝が上洛するから準備せよ、と御家人たちに触れを出す。昨年までに奥州を平定し、いよいよその政権基盤が固まり、これで後白河法皇を対峙できると考えてのこと。
4/19 各国各荘園の地頭からの年貢差し出しが遅れていることに対する調査報告が為される。北は信濃国、南は九州備中・備後の各国の名前も挙げられていて、頼朝政権が全国支配していることを表している。
7/1 しかし、この日に「関東御分国」に殺生を禁ずる名を出している。「関東御分国」は東日本のこと。頼朝政権の実質的支配権が東日本のみに見え、まだまだ安定はしていないのかも知れない。
9/7 伊東祐親の子孫である曽我兄弟が北条家に出入りしていて、頼朝も黙認している。
9/17 待賢門院ゆかりの寺(円勝寺)の荘園の地頭を後白河法皇の命で流罪にした。補任もしないという。頼朝もこれに従う。地頭の任命権は完全には頼朝政権が掌握できていた訳ではないようだ。
11/9 頼朝、ついに後白河法皇と対面。頼朝は大納言、そして右大将(近衛府のトップ)へと任じられる。常設の官職としては武士のトップとなった訳だ。だが、数日後、頼朝は両職とも辞任する。
11/13 頼朝から後白河法皇へ贈り物。砂金八百両、鷲の羽根 二櫃、御馬 百頭。後白河法皇は翌日(11/14)、馬を各社へ分配する。
11/16 頼朝から後白河法皇の御所女房へ贈り物。桑糸 二百疋、紺絹 百疋。
11/28 頼朝が右大将に任ぜられ、拝賀の段取りが為される。北条義時が甲冑の指示をしたことが記されている。
建久二年 1191年
3/4 鎌倉に大火発生。北条義時らの屋敷や御所、鶴岡八幡宮の社殿が燃える。後日、頼朝は社殿の礎石を見て涙したという。
3/6 地震発生。これはなぜか吉兆と思われたようだ。
4/5 延暦寺と頼朝政権配下の武士との間で刃傷沙汰が起きる。水害で年貢を収められなかった佐々木定重の元に延暦寺の僧侶たちが押しかけ、家人らを殺害。定重らが反逆して相手を殺害する。その後、延暦寺側が佐々木親子の死罪を要求、内裏に神輿を担ぎ入れるなどする。結局、それに押されて頼朝も佐々木定重を死罪とする。
この時期においても仏教界勢力が非常に大きな力を持っていたことを物語っている。
建久三年 1192年
1/19 東大寺修繕の木材切り出しで、周防国でもめ事がある。大内介弘成が妨害をしたとの訴えが頼朝政権にあった。だが、審議の末「関東が管轄するものではないので朝廷に奏聞せよ」となる。頼朝政権の実質支配が未だ東国に限られているように見える。
3/16 3/13に後白河法皇崩御との知らせが鎌倉に届く。
5/26 幼い北条泰時(幼名 金剛)を危ない目に遭わせた者が領地没収となる。頼朝は泰時の聡明さ故に太刀を授ける。北条氏が頼朝から信頼されていたことを協調した記事か?
7/20 7/13日に、頼朝が征夷大将軍に任ぜられたとの知らせが鎌倉に届く。この日の記述はこの一行のみ。征夷大将軍就任がそれほど大きな話ではないと捉えられていたようだ。
★基本データ&目次
編者 | 五味文彦, 本郷和人 |
発行元 | 吉川弘文館 |
発行年 | 2009 |
副題 | 征夷大将軍 建久元年(1190)~建久三年(1192) |
ISBN | 9784642027120 |
- 本巻の政治情勢
- 吾妻鏡 第十
- 建久元年(1190年)
- 吾妻鏡 第十一
- 建久二年(1191年)
- 吾妻鏡 第十二
- 建久三年(1192年)
- 付録
- 干支表
- 時刻表・方位
- 大倉御所概念図・鎌倉時代の鎌倉
★ 感想
奥州平定をなし、最後の“宿敵”だった後白河法皇も崩御してこの世を去る。これで武力の面でも政治の面でも頼朝政権に敵がいなくなった時期だと思われる。
上洛をして、後白河法皇から右大将に任じられた時点で武士のトップとして認められたし、吾妻鏡内の頼朝に対する呼称も「幕下(ばっか)」となっている。形式的にはこれで頼朝が「幕府」を形成したということだ。
ちなみに吾妻鏡では頼朝のことを官位・官職で呼んでいて、流罪になる前に右兵衛權佐に任ぜられていたことから武衛(兵衛の唐名)と長く呼ばれていたようです。源平合戦に勝利して従二位に叙せられてからは「二品(にほん)」となり、大納言になった後の数日は「大納言家」、そして右大将になってからは「幕下」となっています。
そして、征夷大将軍となった訳ですが、頼朝政権が実質的に支配していたのが(東北を含む)東国だけなのか、畿内や西日本も含まれていたのかよくわからない記述が多かった。名目上は全国の地頭の任命権を得ていたのでしょうが、周防国(現在の山口県辺り)のもめ事には「管轄外だ」と言っている。年貢の取り立てはできても、実質的な司法・警察権は持っていなかったと言うことなのだろうか。初めての本格的武家政権だし、始まりはこのように不安定な状況だったのだろう。
戦勝記念やら、今後の安泰を願っての寺院建立・修復の記事も目立った。現代人の目から見れば、もっと実務的な施設(役所や病院、軍事施設)に金をかければいいのにと思ってしまうが、この時代の人びとはまさに疫病対策や治安維持をこれで図ったと考えていたのだろう。
まあ、今の世の中でも「COVID-19のパンデミック対策は意味がない」「ウイルス自体が陰謀だ」という“議論”も少なくないし、千年経ってもあまり変わっていないのかも知れないが。
兎にも角にも、「いい国作ろう鎌倉幕府 1192年」を迎えた訳で、色々な説はあるものの、鎌倉幕府が動き出していたのは確かでしょう。この先、どのように幕府体制を固めていくのか、興味は尽きません。
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