東南アジア 多文明世界の発見

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★あらすじ

東南アジアは中国とインドとに挟まれた位置にあり、両世界から種々の文化を受け入れ、地域社会を形成していった。自然に恵まれていて、戦火などの特別な状況を除いては、基本的に衣食住に困窮することはなかった。そのため、各地域で多種多様な文化が維持・発展していった。

紀元前後、インドとの交流はベンガル湾を横断する海路が中心で、メコン川を経由して中国とも繋がる貿易ルートが築かれていた。その途中途中で港が栄えていた。さらに勢力を強めた地域では国が興り、インドシナ半島東南部ではチャンバー国(林邑:リンユウ)が、スマトラ島にはシュリーヴィジャヤ(室利仏逝)が、対のチャオプラヤー川下流域にはドヴァーラヴァティー国が生まれた。
九世紀から十一世紀頃には、各地で内陸型農業社会が発展していき、インド・中国から吸収した精神的価値体系を各地の枠組みに採り入れ、組み替えていった。

カンボジアでも紀元前後からインド思想を受容し、インド式宇宙観(須弥山が聳え、聖なる川ガンジス川が流れる聖地に都城がある、という図式)に基づいてアンコール地方で自分たちの“聖都”を造り続けていった。ブノン・クレーン高丘を須弥山に見立て、シェムリアップ川をガンジス川とし、アンコール平野に都を築いた。
アンコール地方では、雨期には大洪水が起こり、乾期には雨が全く降らない。そのため、貯水施設としての人口池(バライ)を都に設け、人々の暮らしを安定させることに王たちは苦心していくことになる。王の都市計画は、バライを造営し、祖先を祀るプリヤ・コー寺院を建て、のちに王宮を寺院後方に造るという順番に行われた。現在でも、アンコール・トム西側のバライは1.5億トンの水を蓄えることができる。

アンコール王朝ではサンスクリット語と古クメール語が併用されていた。各地に残る石碑の碑文も二言語で並記されているものが多い。当時、サンスクリット語は東南アジア全体での共通言語となっていて、後に現地のクメール語も書き言葉へと発展していった経緯がある。
彼らは「貝葉」と呼ばれるヤシの葉で作った“紙”を用いていたが虫害によって全て失われてしまった。そのため、歴史を知る術としては碑文が最も重要なものとなっている。部分的には中国文献に拠って補完できることもあり、中国の正史などに「扶南」・「真臘」などの名で記述されている。

また、美術様式は個々の特徴から、以下のように分類されていて、逆にこれら特徴が年代特定にも利用されている。

  • プノン・ダ美術様式:七世紀末から
  • プノン・クレーン・ロリュオス美術様式:九世紀から。ジャヤヴァルマン二世の治世
  • コー・ケー美術様式:十世紀前半、ジャヤヴァルマン四世の治世
  • パンテアイ・スレイ美術様式:十世紀後半、高官ヤジュニャヴァラーハによるバンテアイ・スレイ寺院の建立
  • バプーオン美術様式:十一世紀
  • アンコール・ワット美術様式:十二世紀前半、スーリヤヴァルマン二世
  • バイヨン美術様式:十三世紀、ジャヤヴァルマン七世

★基本データ&目次

作者石澤良昭
発行元講談社(講談社学術文庫)
発行年2018
副題興亡の世界史
ISBN9784065126707
原著東南アジア 多文明世界の発見 (興亡の世界史), 講談社, 2009
  • 序章 「東南アジア」を再発見する
  • 第一章 東南アジア史の形成と展開
  • 第二章 アンコール王朝発見史物語
  • 第三章 アンコール王朝の宇宙観と都市計画
  • 第四章 碑文資料が綴る王朝の政治と社会
  • 第五章 アンコール時代の「罪と罰」
  • 第六章 経済活動と生活
  • 第七章 アンコール時代の精神価値体系
  • 第八章 アンコール美術とその思想
  • 第九章 東南アジア史から見たアンコール王朝史
  • 第一〇章 キリスト教ヨーロッパとの出会い
  • 第一一章 祇園精舎としてのアンコール・ワット
  • 第一二章 東南アジアからのメッセージ
  • 学術文庫版のあとがき
  • 参考文献
  • 年表
  • 主要人物一覧

★ 感想

本のタイトルは「東南アジア」となっているが、中身はアンコール王国(今のカンボジア)の話。一応、第一章で東南アジア全般について歴史を概観しているけれど、教科書以上に“事実の羅列”が続いて、読むのがシンドイと思えるほど。そんなに無理をせず、タイトルを「アンコール王国 興亡の世界史」にしちゃえば良かったのに。充分に売れるタイトルだと思うのですが。。。

そんなアンコール王国の歴史を伝える書物はほとんどないそうだ。地勢的に各国との争いが多く、戦火に遭うことが多かったからというのが一つの理由。だが、もう一つの方が致命的だったようだ。
彼らはもちろん自分たちの歴史を書物に残した。ところが、彼らが書物・記録に用いていた“紙”はヤシの葉で作られた「貝葉」というものだった。通常の紙に比べて虫に食われ易いという欠点があり、王国では過去の書物を複写し続けることによって維持してきた。そのため、戦争などによって王国の力が衰えるとその複写作業が止まってしまい、書物・記録は崩れ去ってしまったそうだ。

なので、本書でも分かる通り、石に刻まれた碑文を頼りに研究者たちは王国の過去の歴史を紐解いていくという事になっている訳。まあ、書物に残されていただろう内容もそうだったのかも知れないけど、石碑の碑文というと為政者を褒め称える内容が中心だろうから、かなり“バイアスの掛かった”情報に思えてしまう。中国の史書が傍証にはなっているんだろうけど、正直、頼りなく感じてしまう。歴史を紐解いていく作業、大変そうだ。この辺り、日本史で言うと、魏志倭人伝に頼って卑弥呼の邪馬台国を論じているのと似たようなものなのだろうか。
そんなことを思いながら読み進めたせいか、アンコール王国では王様が即、神であるという信仰(デーヴァラージャ信仰)・政治体制だったという話に納得してしまった。

古代日本でも大和政権はたびたび遷都をしていたが、アンコール王国の王たちは一代ごとに新たな都を築くのがつねだったというのには驚き。現代的感覚からすると無駄だし、発展の継続性が削がれてもったいないと思っちゃいます。でも、神である王は自分自身の力を示すためにも必要だったんでしょうね。まあ、そんな条件の中でアンコールワットのような巨大な宗教都市(城?)を造ってしまったのだから、その力・権力がいかほどのものか分かります。

一度は行ってみたいアンコールワットですが、その歴史はまだまだ謎に包まれているようです。

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