★あらすじ
文治二年(1186)正月小 二十九日 戊申、源義経の所在は依然不明であり、そこで静御前を鎌倉に連れてくるよう、在京の北条時政に命が下る。また、その旨を後白河院に申し上げるべく、藤原経房に伝えた。
当時、幕府と朝廷の交渉は、幕府側が北条時政、朝廷側が藤原経房を核に行われていた。時政は後白河院からの信頼も得て、その存在感を強めていくことになる。頼朝の命で時政が鎌倉に戻ることになった時、後白河院は引き留めるほどであった。
二月大 二十六日 甲戌、頼朝の若君(後の貞曉)が誕生する。だが、密かに通じた日立介藤時長の娘の産んだ子であったために御台所(北条政子)は甚だ不愉快に思われた。そのため、お産の儀式は何事も省略した。
十一月大 二十四日 丁卯、各地に設けられた地頭たちが、公家たちの所領(荘園)で“横領”を働くことを止めさせるべく、院宣が出される。だが、鎌倉幕府側は「謀反人の旧領については地頭を置く」ことを認めされる。
鎌倉幕府が各地に設置した地頭による支配に対する朝廷側の反抗だったわけだが、“条件付き”で地頭職を停止するという逃げ道を設け、実質的には幕府側の意向に沿った形で決着をみた。
文治三年(1187) 九月小 四日 壬寅、奥州の藤原秀衡が義経を扶助して反逆していると、頼朝が院に訴えた。それに対して院は御下文を陸奥国に下された。鎌倉幕府も雑色を陸奥国に派遣していたが、「秀衡からは異心ないとの弁明があったが、実際は反逆の用意が進んでいる」と報告が為された。
奥州藤原氏への“追求”が始まる。「義経に加担している」と頼朝が院に訴えたのだ。一方で、それまでは藤原氏は恭順の意を示していて、朝廷への貢ぎ物を「鎌倉経由で京都に送る」ようにしている。だが、秀衡は死に際して息子の泰衡に「義経を大将軍として陸奥国の国務に当たれ」と遺言したとの報も鎌倉側にあり、ここに奥州合戦(藤原氏追討)が始まろうとしていた。
★基本データ&目次
編者 | 五味文彦, 本郷和人 |
発行元 | 吉川弘文館 |
発行年 | 2008 |
副題 | 幕府と朝廷 文治二年(1186)~文治三年(1187) |
ISBN | 9784642027106 |
- 本巻の政治情勢
- 吾妻鏡 第六
- 文治二年(1186年)
- 吾妻鏡 第七
- 文治三年(1187年)
- 付録
- 干支表
- 時刻表・方位
- 大蔵御所概念図/鎌倉時代の鎌倉
★ 感想
北条時政は京都において、自ら犯罪者の刑を執行している。本来は検非違使の役割だが、実権は時政にあったようだ。
国司の任命についても朝廷に物申すようになっている。対馬守には、平家に従わなかった藤原親光を再任せよ(平家に追われて高麗に避難していた)などと“進言”している。
また、源義経の居所を探しているが分からないとある一方で、「義経が伊勢神宮に太刀を奉納した」との記述もある。動向を掴んでいるのか、いないのか、良くわからない。それを良いことに(?)畿内各国に守護・地頭を置いたのは、義経らの探索・追捕のためとしている。義経が逃げ回っているのを利用して、地方へも権力組織を築き上げていったようだ。
平家追討を成し遂げた後、東国だけではなく、京都においても頼朝政権(鎌倉幕府)は実質的な力を持ったことを示している。だが一方で、源行家が捕縛され斬首された時には、頼朝自身は喜んだが同時に後白河法皇の不興を買ったのではないかと懸念していた、と記している。朝廷との関係はなかなか微妙なものだったのだろうか。サブタイトルに「幕府と朝廷」とある通り、両者の関係が新たな段階になっていく(武士が実質的に全国を支配する体制)へと変わっていく、まさにその過渡期の状態が現れているのだろう。
頼朝の側室が子を産むと、「北条政子の機嫌が悪くなった。そのため、出産の祝いは為されなかった」との記事もあった。
義経の居所を聞き出すために鎌倉に護送した静御前。今日に戻す前に舞を踊らせたところ、義経との恋を謳ったとか。頼朝は激怒したが、政子が自分たちのこと(なれそめ)を語って頼朝を宥めた。つくづく、妻に頭の上がらない頼朝だ。
だが、その割には自分の乳母だった人の娘のところに「密かに渡られた」りしていている。この娘は人妻だったようだが。。。こういう話までも載せているのが吾妻鏡の面白いところだ。
恐妻ぶりを堂々と書き残しているところが、北条氏が描いた歴史の書ということを示しているのか。源氏を真っ向から否定できないものの、こんな形で「いやいや、実は大した奴じゃなかったんだよ」と言いたかったのだろう。鎌倉時代と一括にされながらも実際は複雑だ。源氏の将軍が絶えたあとの吾妻鏡の記述がどうなっているのか楽しみだ。
静御前が捉えられ、鎌倉に連行されて後、義経の子を産む。男子だった。そのため、頼朝はその子を殺すことを命じる。政子が命乞いをしたが聞かなかったという。
自分が、池禅尼の嘆願によって清盛に殺されるところを助けられたのを“覚えていた”のだろうか。禍根は断たねばならないと、文字通り“身を以て”知っていたからだろう。
朝廷との新たな関係を築きつつ、義経追討を旗印に諸国を抑えていき、ついには「藤原秀衡が義経に加担している」旨の記述によって「最後の敵は奥州藤原氏だ」と宣言して終わった本巻だった。淡々とした記述が多かった本巻だが、全国制覇まであと一歩という、嵐の前の静けさだったのだろうか。
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